アトリエの作業台に広げた二枚の着物。奥に赤の総絞りと朱赤の絹、手前に御所車の手刺繍が入った薄桃色の正絹
chapter one

赤い絞りに、手を置く

作業台に広げた赤の総絞りに、手を置きました。粒のひとつひとつが、指の下でふっくらと押し返してきます。一面に、隙間なく絞られた粒。ひと粒ずつ糸で括って染めた、気の遠くなるような仕事です。 三十年ほど前のものと伺いましたが、色の褪せも、しみも、見当たりませんでした。

お婆様が反物からご用意され、そのまま仕舞われていた着物だそうです。 一度も袖を通していない一着が、どれほど大事に置かれてきたか。広げた瞬間の、布の張りと深い赤が、それを語っているような気がしました。

赤の総絞りの上に、朱赤の無地の絹を待ち針で仮どめしているところ
― 一面の粒。ひと粒ずつ括って染めた、赤 ―
chapter two

絞りの裏側にあったもの

赤の絞りをほどいて裏返したとき、手が止まりました。絞りの裏側に、ごくごく薄い羽二重が一面に重ねられ、白い糸で、波のように細かなしつけがしてあったのです。

絞りの布は、よく伸びます。そのまま裁って縫うと、粒が引かれて歪み、形が崩れてしまう。だから当時の職人さんは、仕立てる前に、表の絞りに寸分の狂いなく羽二重を重ね、一針ずつ、等しい間隔で縫い留めていました。二枚の布が一枚になるまで。気の遠くなるような手仕事が、絞りの粒を守る土台になっています。このしつけがあるから、三十年経った今も、粒がふっくらと潰れずに残っているのです。

そのしつけ糸も、絹でした。糸まで絹だから、布と糸が同じように呼吸して、当時のままのやわらかさと平らさが保たれている。表からは見えない場所に、いちばん手間のかかる仕事がありました。

赤の総絞りの裏側。ごくごく薄い羽二重が一面に重ねられ、白い絹糸で細かくしつけがしてある
― 絞りの裏側。三十年前の、見えないところの仕事 ―
chapter three

もう一枚、薄桃色の御所車

赤の絞りと一緒に届いたのが、薄桃色の正絹に御所車の手刺繍を施した一枚です。生地には、光の向きで浮かんだり沈んだりする、紗綾形の地紋。その地紋の上に、白い雲のような絞りが置かれ、さらにその上から刺繍が重ねられています。織って、絞って、刺す。三つの手仕事が、一枚の布の上で重なっています。

御所車の車輪の輪郭も、車から垂れる紐の結び目も、四季の花も、糸はすべて絹。絹糸の撚りと太さを変えながら、絵の具で描いたような、なめらかな色のぼかしが立体に刺されています。一針一針の密度が高く、ふっくらとした温かみがある。御所車から優雅に伸びる紐は、縒り糸の太さや質感、結び目や房のやわらかさまで、糸の引き加減だけで写し取られています。

一本の糸の張りを指先で測りながら、流れる曲線を一針ずつ刺していく。熟練の職人にしかできない、手刺繍の最高の技です。機械の刺繍にある平らな均一さは、どこにもありません。自然の光をやさしく吸って返す絹の立体と、職人の息づかいの宿ったぼかし。針を運んだ人の手が、そのまま残っています。

深い赤の絞りと、やわらかな薄桃色の刺繍。この二枚は、形の違う二つのチュニックに生まれ変わります。

薄桃色の正絹に手刺繍された御所車と橙色の小花。紗綾形の地紋の上に白い絞りの雲取り、左に金茶色の暈しの布
― 御所車と、四季の花。紗綾形の地紋と、白い絞りの上に ―
chapter four

ほどく、あてる、仮に縫う

和裁の着物を、洋裁の服にする。まずは、ほどくところからです。ほどいた布を作業台に広げ、絞りのどこを身頃に、どこを袖にするかを、粒の流れと相談しながら決めていきます。写真の朱赤の絹は、絞りの縁に沿わせるために、待ち針であてているところです。

ハンガーに掛かっているのは、仮縫いです。片身は着物の生地、もう片身は白い綿の布で組んであります。本番の絹を無駄にしないように、まず白い布で形を確かめ、着る方の身体に合わせてから、本裁ちに進みます。

この仮縫いを、お客様と一緒に眺める時間が、いちばん楽しいひとときです。御所車をどこに置くか。裾にゆらせるか、胸もとに寄せるか。絞りの粒の流れを、身頃で縦に見せるか、袖でやわらかく回すか。生地をあてながら、お好みを伺いながら、話は自然に弾んでいきます。丈はもう少し長く。ここにはあの朱赤を少しだけ。袖はもう一寸、ゆったりと。待ち針を打ち直すたびに、服のかたちが、お客様のものになっていきます。

ピアノを弾くとき、腕は前へ、肩はやわらかく動きます。その動きを妨げない袖のかたちを、仮縫いの上で探しているところです。

ハンガーに掛けた半身の仮縫い。片身は薄桃色の着物の生地、もう片身は白い綿の布。手前の台に刺繍の生地
― 片身は着物の絹、片身は白い綿。仮縫いの途中 ―
chapter five

三十年前の手に、いまの手を重ねて

この二枚の着物が仕立てられたのは、日本の染めと織りと刺繍の技が、いちばん熟していた頃だと思います。ひと粒ずつ括った総絞り。絞りの裏に羽二重を重ね、絹の糸で一針ずつ留めた裏打ち。紗綾形を織り出した正絹に、絞りを置き、さらに絹糸で御所車を刺した重ねの手仕事。どれも、いまの呉服の現場では、なかなか出会えないものです。

そして三十年のあいだ、この絹が黄ばみも、しみも、糸のくすみもなく守られてきたこと。絹は湿気と光でたやすく変わります。それがこの状態で残っているのは、当時の染めと糸の質に加えて、お婆様とご家族が、三十年のあいだ本当に大切に扱ってこられたからです。

お婆様の前でピアノを弾く日のために、この着物を託してくださったこと。そして、これほど美しい着物に出会えたこと。アトリエの私たちは、いま、感動と感謝のなかで針を持っています。三十年前の職人さんの手の上に、私たちの手を重ねる。一枚の布に、大事にハサミを入れ、静かに裁ち、一針ずつ針を運んでいきます。

glossary

布の言葉 ― この記事に出てくる、着物の生地のこと

総絞り(そうしぼり)
布の一面を、ひと粒ずつ絹糸で括ってから染める技法。括った部分だけが白く残り、粒のような立体が生まれます。京都では鹿の子絞り、疋田絞り(ひったしぼり)の名で知られ、絞り職人が一粒ずつ手で括るため、一反を仕上げるのに長い時間がかかります。この粒が潰れないよう、裏打ちをして仕立てるのが本来の作法です。
羽二重(はぶたえ)
経糸と緯糸を平らに交差させた、薄くしなやかな絹の平織物。光沢があり、肌にやさしく、着物の胴裏や、今回のように絞りの裏打ちにも使われます。
紗綾形(さやがた)
卍の字を斜めに崩してつなげた、途切れのない連続文様。「絶えず、長く続く」ことを表す吉祥文様として、綸子(りんず)などの白生地の地紋に古くから織り込まれてきました。光の向きで浮き沈みする、上品な地模様です。
御所車(ごしょぐるま)
平安の貴族が乗った牛車のこと。高貴さと華やぎを表す吉祥文様で、婚礼衣裳や振袖など、格の高い着物に用いられます。花を添えた御所車は「花車」とも呼ばれます。
日本刺繍(にほんししゅう)
撚りをかけていない絹の糸(釜糸)を使い、必要に応じて職人が自分で撚りをかけながら、一針ずつ手で刺す刺繍。糸の撚りや引き加減で、光の反射と立体感を生み出します。機械刺繍にはない、糸そのものの光沢が持ち味です。
赤の総絞りの粒のアップ。ひと粒ずつ括って染めた凹凸
御所車の手刺繍のアップ。絹糸で刺した車輪と花

この手仕事に立ち会えたことが、
なにより嬉しい。

― アトリエでの言葉から ―

つづきは、完成した服とともに、VOL.2で。
赤い絞りを、ピアノの音と一緒に、お婆様の元へ。

NADELL
NADELLは、京都で天然素材の服をつくるブランドです。
糸から布、染め、縫製までを、自分たちの手で。
大事な思い出のある着物のリメイクも、承っております。